<映画「聖の青春」に登場する村山聖について>
「村山聖」、将棋に詳しい人ならばこの人の名前は必ず知っていることでしょう。
現在の将棋会で最も強く有名なのは「羽生善治」ですが、その「羽生善治」と並ぶ天才といわれた人物が村山聖なのです。黄金世代とも言われる羽生世代でも最も強かった棋士の1人。
残念ながらタイトルを取ることも及ばず29歳の若さで無く亡くなりました。
その人生を描いたのが「聖の青春」という映画です。
今回はこの「村山聖」という人物についてまとめていきます。
村山聖やその周辺の人達にすいて、自分の知っていることを全て書いたつもりです。多少なりともあらすじネタバレになるかもしれませんが御了承ください。
(敬称は省略します。予め御了承ください)
引用元:聖の青春公式サイト(http://satoshi-movie.jp/)
村山聖のプロフィール略歴
村山聖のプロフィールは以下の通りです。
亡くなられてからおよそ20年経っていますが将棋界では彼のことを知らない人はいません。
村山聖を直接見たことがない若手のアマでも知っている人が多い。
それだけ強烈な印象を与えた棋士でした。
名前 | 村山聖(むらやまさとし) |
生年月日 | 1969年6月15日 |
没年月日 | 1998年8月8日(満29歳没) |
プロ入り年月日 | 1986年11月5日(17歳) |
棋士番号 | 180 |
出身地 | 広島県安芸郡府中町 |
師匠 | 森信雄 |
段位 | 九段(追贈) |
村山聖の両親と将棋との出会いについて
村山聖は兄姉の3兄姉の次男です。
5歳の時に腎臓の難病「ネフローゼ」にかかっていることが発覚し、5年生まで国立療養所原病院で入院。
入院中に父に教わった将棋と出会います。
その後、体に障るということで止められつつも将棋に没頭。
1979年、10歳でアマチュア4段の認定。
将棋のアマチュアはほぼ5段ぐらいまでなので。4段と言えばその次のレベル。すなわち10歳で既にアマチュアの高段者だったということです。
その後、中学生になり1982年にプロ棋士を目指します。両親はびっくりしつつも好きなことをやらせようと決意。プロになるには師匠が必要ということで両親は師匠探しに奔走。当時30歳の森信雄と出会います。いろいろな問題がありながらも1983年に将棋の奨励会に5級で入会を果たします。
有段者なのに奨励会5級というと変な感じがするかもしれませんが、アマチュアの5段はプロの育成機関である奨励会では6級のレベルです。また、プロを目指してアマチュア5段レベルになった強豪でも奨励会に入れない人も多いです(奨励会に入る試験で落ちる)。
要するにアマチュア高段者であってもプロの育成機関、奨励会に入ることさえも大変ということ。 また、何とか奨励会に入った人もそこからも大変です。将棋を指してお金がもらえる本当の意味でのプロは4段以上。3段以下は奨励会の会員で規定の年齢のうちに4段以上にならないと(26歳までだったかな?)、奨励会からふるい落とされ実質的にプロへの道は絶たれます。とにかくも厳しい世界です。 |
森師匠との出会い
村山聖にとって森信雄が師匠だったのはこれ以上無い幸運だったと思います。
森師匠は大阪で単身で暮らす病身の村山聖に対し親身な世話をして支えたそうです。パンツを洗濯したり、髪を洗ってあげたりしたとも言われています。
村山聖は先にも紹介した通りに病弱。しょっちゅう熱を出し「42度になったら死にます」と言っていたそうですが、41度を越していても森師匠は「40度になってない。大丈夫や。」と答えて村山を安心させたらしい。
村山が少女漫画が好きということで求めるとどこで売っているかさえわからなかった森があちこちの書店へ奔走したとも。「どちらが師匠かわからない」ということで知られる逸話の1つです。
その後、村山聖は1986年11月5日にプロデビュー(4段昇格)。
奨励会入会からプロ入りまで2年11か月は、天才という称号を欲しいままにした谷川浩司や羽生善治をも超える異例のスピード。しかも村山は病気による止むを得ない不戦敗が度々あったり、長期戦は不利でした。驚異的としか言いようがありません。
病弱ながらも本当の天才。
それを支えたのが森信雄師匠だったということは言うまでもないででしょう。
森信雄師匠が村山聖の人間的な成長も支えたのではないかと思います。
村山聖の繊細な性格
村山聖は髪の毛や爪にも命があり、それを切るのは忍びないという繊細な思いから髪の毛や爪を切ることを極端に嫌がったそうです。
「名人になって早く将棋を辞めたい」とも言っていたそうですが、これは将棋で相手を倒すことが精神的にきつかったからかもしれません。もちろん、逆に負ける時もきつかった。
相手を倒すことに全身全霊を傾けつつ、その裏で倒れていく相手に対して敬意を払っていたのでしょう。
また、プロを目指しているにも関わらず将棋に真剣に向き合っていないと思った人に対しては敵意をむき出していたかもしれません。彼なりの愛情だったのかも。後から将棋界の人達の村山聖に対する談話がいくつか出てきますが、村山聖の意思を汲んだ人達がプロとして、人間として成長しています。
天才・羽生が恐れた男?
現在、将棋会で最も強いのは羽生善治と言われています。とにかく最強。数多くのタイトルを取り、将棋の歴代最高棋士と言っても差し支えないでしょう。そして、村山聖はその羽生善治を最も苦しめた人間の1人とされます。
対戦成績は村山の6勝8敗(1不戦敗含む)。
現在の将棋会でここまで対戦成績で競っているのは村山聖以外にはほとんど見られません(直接の対戦成績で競っているのは渡辺明、永瀬拓矢あたりか)。
東の羽生、西の村山と並び称されることも多かったのですが、やはり病弱であることで不戦敗なども多く、また長時間の対局には弱いという弱点もあって将棋界での成績では羽生に水を開けられることになりました。
また、村山聖は対戦相手に敵意むき出しにすることも多い中で羽生に対しては特別な敬意を払っていたとされます。それは羽生が最強棋士と言われる前の奨励会時代からです。羽生の将棋に対する真剣さ、ひた向きさ、そして新しいことを常に探求するチャレンジ精神、向上心などを感じ共感したからでしょう。
羽生にならば負けても仕方が無いというものを感じ取ったのかもしれませんし、自分の夢を託したいという気持ちがあったのかもしれません。
羽生世代について
村山聖が将棋界に入った時は幸か不幸かとにかく将棋が強い人達が多い。羽生世代、黄金世代などと呼ばれています。
その羽生世代と言われるのは以下の8人です。
タイトルを取るだけでも将棋会ではかなりの名誉です。この世代はタイトルを何度も取っている人が多数、とんでもない世代と言えます。
村山聖が健康で今も生きていたならば羽生のライバルとして立ちはだかったことでしょう。将棋会でここまで羽生が独走することも無かったかもしれません。
(「もし健康だったからとか、もし今も生きていたら」という表現を嫌う人も多いと思いますが、やはり想像してしまう自分がいます。御了承ください)
逆に考えるとこの世代のライバルたちは羽生善治、村山聖に影響を受けて、お互いに切磋琢磨することでその実力を伸ばしたとも言えるでしょう。
映画では羽生善治、村山聖の対比が中心でしたが先崎学は映画の中の荒崎学のモデルになっています。
名前 | 生年月日 | プロ入り(4段) | 主なタイトルなど |
村山聖 | 1969年6月15日(29歳没) | 1986年11月 | 第13回若獅子戦、第30回早指し将棋選手権優勝、A級でも活躍 |
佐藤康光 | 1969年10月1日(46歳) | 1987年3月 | 1993年度竜王、1998年-1999年名人、2002年王将、2002-2007年棋聖で永世棋聖の資格獲得(2006年に獲得)、2006年棋王、2011年王将 |
先崎学 | 1970年6月22日(46歳) | 1987年10月 | 優勝多数、A級での活躍も。 |
丸山忠久 | 1970年9月5日(46歳) | 1990年4月 | 2000年-2001年名人、2002年棋王 |
羽生善治 | 1970年9月27日(45歳) | 1985年12月 | 1989年度の竜王から多数のタイトルを獲得。永世六冠など。タイトルが多すぎるので省略。 |
藤井猛 | 1970年9月29日(45歳) | 1991年4月 | 1998年-2000年、竜王戦史上初の3連覇 |
森内俊之 | 1970年10月10日(45歳) | 1987年5月 | 2003年、2013年竜王、2002年、2004年-2007年と2011-2013年名人(2007年に永世名人)、2003年王将、2005年棋王、 |
郷田真隆 | 1971年3月17日(45歳) | 1990年4月 | 1992年王位(最低段位4段でのタイトル獲得)、1998年と2001年に棋聖、2011年棋王、2014年-2015年王将 |
ここで言う、A級というのは順位戦のA級のことです。
A級に在籍できるのは毎回10人のみで将棋のプロの中でも頂点に君臨する人達です。
その下にはB1組(13人)、B2組(不定)、C1組(不定)、C2組(不定)があります。それぞれの階級で毎回リーグ戦を行いそのリーグの中で上位が上のクラスに昇格、逆に下位が下のクラスに昇格します。リーグ戦なので運はあまり作用しません。とにかく本当に強い人が上のクラスに上がっていきます。
そして、将棋会で最も強いとされるA級10人の総当りのリーグ戦で1位が名人位に挑戦できます。逆にA級の下位2名はB1級に降格となります。将棋界には多くのプロがいますがA級に入れるのはほんの一部。村山聖はそのA級に在籍したことがある人間の一人ということです。
勢いでタイトル戦の上位に入る人もいますが順位戦のA級はコンスタントに勝ち星を重ねないと入れません。タイトルホルダーでさえもA級に入り維持することは困難とされ、A級は本当の実力者が集まっていると言えるでしょう。A級になるのも大変、当然維持するのも大変です。
過去にA級在籍のまま逝去したのは、大山康晴、山田道美、村山聖の3人だけです。
村山聖の逸話、エピソードなど
私が印象に残った村山聖に関する逸話、エピソード、談話などを以下に紹介します。
増田裕司(弟弟子)が語るエピソード
弟弟子の増田裕司四段(当時)が最も印象に残っている村山聖の対局は、村山氏が膀胱癌の大手術をした後の復帰第1戦目。対丸山七段(当時)の順位戦だそうです。
この日は森師匠から、村山さんがいつ倒れるかも分からない、心配なので終わるまで待機している様にと言われていたらしい。
控え室のモニターでは村山さんの勝勢。しかし対局は夜中の1時過ぎに及び、午前1時43分に村山さんは逆転負けをしてしまう。
手術後、このような時間にまで将棋を指すこと自体が無謀とされるところへ命を削ってまで将棋を指して、惜しくも逆転負けとなったわけです。
ここまで真剣に将棋に打ち込んだ村山氏の弟弟子で本当に幸せものだったと語っています。
この将棋には看護婦さんも同行していたらしい。看護婦さん曰く「対局できる体ではない」「もちろん猛反対した」とのことです。
この将棋は村山氏がお亡くなりになる約1年前です。本当に命を削って将棋に没頭したということでしょう。
それ以外にも多くの人が村山聖に対してコメントを述べています。以下はその一部です。
山崎隆之(弟弟子、八段)の談話
この前、村山先生の昔の記事を見た。
「将棋は心が疲れる、負けた時は死ぬかと思う」「将棋に一生をかける価値はあるか」昨年大手術をした時行ったら棋譜を並べてた。この言葉は本当の様な気がする。将棋に全力は出すとは思うけど、負けたら死ぬと思うとか一生をかけるとか、図のたった八十一個の桝目と四十枚の駒に……。そこまでしないと全力を出すって事にはならないのか。どうやら相当自分は甘い考えをしていたみたいだ。
(私のコメント・・・山崎隆之は若手の成長株。村山聖は彼にとてつもなく大きい影響を与えたようです。また、山崎隆之は村山聖が亡くなったという知らせを聞いた翌日に村山聖の実家、広島に向かっています。その途中で羽生善治と会ったのも偶然ではないような気がします)
青野照市九段の談話
ともかく才能のあった棋士、そして最後まで勝つことに執念を燃やした男だった。
彼が将棋に対するときは、病気をまったく意識しなかったはず。病気を少しでも意識すれば、早く勝とうとして無理な手が出るが、彼にはまったくそういう感じがなかった。
ゆえに、病気でなかったらタイトルがとれたとか、名人になっていたなどの表現は、私としては理解できないし、そう思わない。彼に失礼であると思っている。
(私のコメント・・・独特な青野氏の独特な言い回しですが、そこからも村山氏の凄さが伝わってきます)
以下、敬称略、段位で書いていますが実際には現タイトルホルダーの人も多くおられます。
大野八一雄七段(引退)の談話
死を覚悟して勝負していた人間にかなうはずがない(生き方として)。よく食事に行った。盤を離れたら人なつっこいかわいい先生だった。
(私のコメント・・・村山氏は一流の人間にかなわないと言わせるほどの人間だったということでしょう)
福崎文吾九段の談話
将棋に関しては、羽生善治さんに比肩する鬼才の持ち主。
(私のコメント・・・棋士の間でも羽生氏に匹敵する存在だったということです)
真部一男九段の談話
硬骨漢。現実的な面もあったが、何といっても将棋の表現力が独創的だった。
(私のコメント・・・将棋の表現力が独創的ということで常に新しいものを探求していたと思われます)
島朗九段の談話
借りを作るのが嫌いな、いさぎよい男。彼と真剣勝負が何局か指せて、幸せだと思う。
(私のコメント・・・真剣勝負が出来て幸せと対戦相手に言わせるというのは凄い。最大級の賛辞と言えるでしょう)
行方尚史八段の談話
最高の将棋指しの一人だった。彼に恥ずかしくない将棋を指して、僕は生きていかなくてはならない。
(私のコメント・・・これも最大級の賛辞と言えるでしょう)
佐藤康光九段(羽生世代のうちの1人)の談話
私の推測だが、私の将棋は全面的に彼に認められていなかったと思う。彼にとっては羽生さんしか眼中になかったかもしれないが。何げない一言や行動でそれを感じていた。彼は即興の将棋は嫌っていた。私の将棋は多少、そういう面を持っている。
(私のコメント・・・佐藤康光は村山聖が亡くなった年に名人位を獲得しています。村山聖が認めていないはずはないでしょう。病院の中でもその名人戦の棋譜をチェックしています。佐藤康光は村山聖にライバルとして認められようと頑張った。そして名人に上り詰めた。それなのに名人として村山聖と戦うことができなくなった。その無念さが佐藤康光にこのように語らせているのだろうと思います)
郷田真隆九段談(羽生世代のうちの1人、仲の良い友人)
・私は彼のことが好きでした。盤上ではライバルであり、盤を離れれば仲間であり友人でした。それよりも何よりも一人の人間として、私はムラヤマヒジリが好きでした。
・一度でいいから、大舞台でお互い本気を出して、思う存分戦ってみたかった。
(私のコメント・・・本当はサトシと読みますが、郷田真隆は普段からヒジリちゃんと呼んでおり談話でもヒジリと呼んでいます。それだけ親しかったということなのでしょう。郷田真隆ほどの棋士に本気を出してもらっていかなったと思わせるのは本当に凄いことです)
先崎学九段談(羽生世代のうちの1人、仲の良い友人)
平成初期の将棋界を駆け抜け夭折した男は、将棋の天才だったと。と、同時に人間味溢れる青年だった。
(私のコメント・・・先崎学は村山聖を最も良く知る友人の1人。一緒に酒を飲んだり麻雀をしたり。その先崎学によると村山聖は名人になる夢を持つ一方で普通の青春も送りたいという夢も持っていたそうです。天才、怪童などと言われる村山聖も将棋を離れれば特別でもない普通の人だったということでしょう。私たちは普通の青春を送れることに感謝すべきなのかもしれません)
羽生善治九段談
棋士としてこれからという時にさぞ無念だったと推察するが、一つだけ確かなことがある。
彼は本物の将棋指しだったと。
(私のコメント・・・最強の羽生に本物と呼ばれる人は将棋界でもそれほど多くはないのでは?)
ちなみに羽生善治は村山聖の両親に毎年欠かさず年賀状を出しているらしいです。
また、羽生善治は8月10日に村山聖の急逝が伝えられた翌日朝に村山聖の広島の実家に向かっています。8月10日には対局があって午前0時過ぎの帰宅になって、くたくたであったはずですが翌朝朝一番の飛行機で移動したわけです。村山の自宅は急いで行っても東京から5時間はかかる場所。
村山氏の自宅がどこにあるかも分からず途中に偶然に出会った山崎4段(当時の段位)と地元の人に聞きながら何とかバスやタクシーを乗り継いで村山氏の実家に行ったそうです。しかも翌日にはまた対局があるにも関わらずです。
羽生善治は将棋が強いだけでなく人間性も素晴らしいと感じます。またその意思も強さ、やるべきことは後先考えずやりきるべきという強い信念を感じます。
森信雄(師匠)談
・死んでも、村山君はいつも私のそばにいる、そう思うと、さみしくはない。村山聖は汚れのない生をまっとうした。
・精神がガタガタになって指で押されたら倒れそうなときでも、くじけるわけにいかない‥私にとってもそう思わせる存在でもあるのは不思議だなあと思う。
・村山聖ではないが、決して与えられた環境を恨まない‥それが自分のかすかながらも揺るぎない支えでもある
・常にこれからの自分がどう生きていくのか‥村山聖はその座標軸のような存在にもなっている。私にとっては大きくとも小さくともない。
(私のコメント・・・森信雄氏が師匠で本当に良かったと思います。師匠は間違いなく素晴らしい人間。師弟愛は本物だと感じます)
小説「聖の青春」について
小説の聖の青春はほぼノンフィクションです。村山聖という人間をそのまま知りたいということであれば小説を読むことをお薦めします。
小説についての感想は別途まとめているのでそちらを確認ください。
映画「聖の青春」に登場する村山聖についてまとめ
将棋、そして人生に常に真剣に向き合っていた村山聖についてまとめました。才能があり将来が有望されていましたが、残念ながら病気には勝てませんでした。
しかしながら彼が残した功績は大きく忘れることができないものです。
今回の映画「聖の青春」を見てもらって多くの人にそれを知ってもらいたいと思います。映画のネタバレ感想やあらすじについては別途まとめているのでそちらで確認ください。
(映画では小説や史実とは異なる部分もあります)